00:00:52 死はこの上もなく恐ろしいものであり、死の仕事を持続することは最大の力を必要とすることである。(ヘーゲル)
01:00:51 文学の表現するものとは、まさしく悪の極限の形態-なのだが、その悪こそ、私達に取って至高の価値を持つものだと私は考えている。しかしそうだからといって別に道徳の不在を主張しようというのではない。むしろこれは「超道徳」を要求するものである。-文学と悪-
02:00:52 犠牲における外部の暴力が暴き出すものは、血の流出と器官の噴出という形のもとに眺められた、存在内部の暴力である。この生命に満ちた血や器官は、解剖学がそこに見るものとは何の関係もない。科学ではなくて、内的体験のみが、古代人の感情を再び取り戻すことを可能にするだろう。『エロティシズム』
03:00:52 生殖する存在は、互いに他のものであり、生まれてきた存在は、彼らが彼らを生み出した存在とは別のものであるように、彼らたちの間でも互いに別のものである。
05:00:52 「おお、全ての贈与する者らの不幸!わが太陽の蝕!おお、欲望への欲望!おお、飽和のさなかにあって私を責め苛む飢え!」『内的体験』(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「夜の歌」よりの引用)
06:00:16 ※G_Bataille_jpはボットです。バタイユの主要著作から抜粋した言葉をランダムに呟きます。一部字数の関係上要約した部分もあります。呟く言葉については随時更新していきます。
06:00:52 仔細に眺めれば、キリスト教におけるサタンはかなり崇高なもの(聖なるもの)に近く、罪そのものさえ神聖と完全に無関係なものとは認めがたいことを、直ちに指摘しておかねばならぬ。『エロティシズム』
07:00:51 絶望、狂気、愛、嘆願における共犯の感情。交流の、非人間的な、髪振り乱した歓喜。なぜなら、絶望、狂気、愛-真空の切れ端に至るまで、絶望、狂気、愛でないものはなく、さらには、笑い、眩暈、吐き気、死に至るまでの自己喪失でないものはないのだ。
08:00:57 ラスコーは最も古い時代の絵画の、まさに一番美しい、一番無傷な総合的効果を見せてくれる。利害を超越した芸術作品という、この深い、しかし謎めいた交感に与らせるだけの力を最初に持った人々がどんな生活をし何を考えていたか、この壁画以上にその間の事情を明かしてくれるものはないというべきだ。
09:00:54 「ラスコー人」は、精神と精神との交感が始まるあの芸術の世界を無から創り出した。
10:00:57 私が決して忘れることができないのは、現に起こっている事、現に在る事を、眼を開いて正面から見据えようとする意志に結びついた、暴力的で驚異的なものである。もし私が極端な快楽も、極端な苦痛も、少しも知らないとすれば、私は現に起こっている事も知りえないに違いない。『エロティシズム』
11:00:55 私としては、神の抱く憎悪とは時間のことだと言ってもいい。しかしそれは私には面白くもないことだ。何故私が時間などと言い出すことがあろう?私は神のあの憎悪を私が涙を流す時にこそ感じ取るのだ。私は分析などは一切しない。『内的体験』
12:00:56 「死と慣れ親しむためには、淫蕩な観念と死とを結びつけることより以上の良策はない」(サド)
13:00:55 神秘哲学に関しては、私はある明確な関心しか、具体的に言うなら能力を過信していない精神分析医がその患者に抱くような関心しか持っていないことを断っておきたい。実際、勘を頼りにしても無益であろう。勘は易々と、最も惨めな誤りや欠点をもたらすのが落ちなのである。-低俗唯物論とグノーシス派-
14:00:56 個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。ある存在と他の存在との間には深淵があり、非連続性がある。この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話をしている私との間にも在るのだ。
15:00:54 哲学は一つの綜合的な活動という意味で可能性の総和でしかないか、しからずんば無であります。繰り返して申しますが、哲学は一つの総合的な活動という意味で可能性の総和であるか、さもなければ無なのです。ヘーゲルにとって哲学とは、まさにこのようなものだったのではないかと思われます。
16:00:57 核実験の規模は、想像力を動顛させるが、その悲劇的な効果は、確実なものであるだけ感性的な表象には無縁なものだ。-広島の人々の物語-
17:00:55 この卑俗な(超キリスト教的な)見方において神の本質は、「賭けの中にあること」、「自らを賭けの中に投じること」である。結局、人間だけが残ることになる。これは、滑稽な表現を用いれば、一般化した受肉[=神が、人類各人の中に現れること]ということになる。『好運への意志』
19:00:55 世の中には、動かしがたい確立された価値を全面的に転覆せしめるということを考えて、むやみに興奮する人たちがいる。そういう人たちにとっては、史上で最も破壊的な人物-サド侯爵-こそ最も人類のために奉仕した人物だった、などと気楽に言うことも可能であるに違いない。『エロティシズム』
20:00:56 私は笑った。笑いに笑った。あたりが二重に見え、頭がぐらぐらした。『青空』
21:00:54 私たちがはまり込んでいる居たたまれない状況の中で、かつては聖戦(征服、十字軍、宗教戦争)や革命を呼びかけては力強く響いた人間の声が、これまでになく深刻に訴えかけるべき動機があるのに、もはやその力の影すら発揮できないということは、奇妙なことである。-広島の人々の物語-
22:00:56 如何なる賭けへの投入も、如何なる供犠も、肉欲の過剰と同じように、力(force)の消失であり、消費であるのだから、我々は、自分に消費が生じるそのたびごとに、空約束であろうとなかろうと、利得の約束によって、この消費を理由付けせざるを得ないのである。『ニーチェについて 好運への意志』
23:00:55 ぐるぐる回りながら踊ったのを思い出す。跳びはねながら、床板を足で踏み鳴らしながら。相手に挑む感情の中で、滑稽な狂気の感情の中で。この踊り-サルトルを前にしての-は、私自身の中では、一枚の絵(ピカソ『アヴィニョンの娘達』)の思い出と結びついている。『好運への意志』