12:55:55 24p:奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、 リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「 有色人種蔑視観」があった。 リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン ディアンにおじいさんが殺された。 その事で、弁護士時代には、インディ
12:57:06 25p:弁護士時代には、インディアンの方々の土地の取 り上げや、法的闘争に奔走していた。 また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・ (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が 大勢出た)
12:58:09 26p:インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が 大勢出た) また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し たりするリンカーンだった。 1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・ ト
12:59:00 27p:奴隷制反対論者である「ニューヨーク・ トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』 を出すくらいだった。 この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。 その様な心境にさせられて行った。
12:59:49 28p:その様な心境にさせられて行った。 アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上 すべき大統領だった。 リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の 「参加はまっぴら」という大統領だった。
13:00:39 29p:大統領だった。 リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の 「参加はまっぴら」という大統領だった。 そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった く腐敗していた。 北部軍の軍首脳部の腐敗
13:01:31 30p:北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら れっぱなしだった。 北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、 開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という
13:02:23 31p:南部軍の旗をワシントンの 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、 南部軍から出るくらいだった。 . 1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。 リンカーンをトップとする北部
13:03:17 32p:リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し ていて、戦争準備がなっていなかった。 本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。 . 1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ て、やっと、南
13:04:25 33p:この時になっ て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。 それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた めらっていた。 リンカーンには、有色人種蔑視観があった。 しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦 争は、リンカーン北部軍
13:05:12 34p:リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて いた。 黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒( らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳
13:06:01 35p:直接、多くの黒人奴隷の方々は馳( は)せ参じた・・ そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。 その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の 軍隊編入を認めた。 本当に、軽蔑すべきリン
13:06:46 36p:本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。 そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし い功績を残した。 その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃 だった。 第54マサチューセッ
13:07:50 37p:第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す さ)まじかった。 この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。 黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し いた)げを受けていた反動もあって、果
13:08:48 38p:虐(し いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・ その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡 くなっっていた。 戦死者数は4万人にも及んだ。 この戦争には、18万6000人
13:09:41 39p:この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北 部軍の陸軍兵士として参戦していた。 13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。 アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。 炊事係など3万人が参加しただけだった。 給料面でも差別され
13:10:35 40p:給料面でも差別された。 白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状 態だった。 1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ の戦いが、北部軍勝利の転機となった。 そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向 かうジョージア
13:11:30 41p:ジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、 最終的な、確定的なものとなった。 1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北 部軍の手に落ち・・ その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア ポマトックスにおいて、北部軍のグラ
13:12:34 42p:北部軍のグラント将軍に降伏した。 黒人の方々の功績は絶大だった。 アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ たのだった。 . 1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ れた。 しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
13:13:33 43p:リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考 えていた。 また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と 考えていた。 この様に、奴隷解放の足を引っ
13:14:24 44p:この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。 これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ つけていた。 しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣
13:15:14 45p:このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、 おかしな宣言だった。 南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放 する」というものだった。 つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放 され
13:16:09 46p:つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放 されない」という宣言だった。 リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ の様な人間ではない」。 リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の
13:17:09 47p:リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。 即時、全面開放をためらう大統領だった。 しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。 本当にア
13:18:14 48p:本当にアメリカは人権抑圧国家だ。 黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。 . 1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国 憲法』が、やっと、修
13:19:06 49p:やっと、修正された。 アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」 が、やっと、出たが・・しかし・・、 奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳 ではなかった。 この後、黒人
13:19:58 50p:この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの 間、耐え抜いて、戦い・・、 黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、 やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ とができた。
13:20:55 51p:修正案を制定させるこ とができた。 卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況 にはしなかった。 そして、やっと、黒人の方々は、自由を得
13:22:01 52p:やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです) リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参 戦
13:22:57 53p:南北戦争の参 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。 この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな かった。 黒人の方々の戦いは素晴らしかった。 目ざましい役割を黒人の方々は果
13:23:46 54p:目ざましい役割を黒人の方々は果たした。 この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの に導く原動力となった。 際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。 アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた らされた」と言える状況だった。
13:24:38 55p:アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた らされた」と言える状況だった。 今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ てもたらされた』と言える。 リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを 顕彰する記念碑を建立すべき・・、 そし
13:25:32 56p:記念碑を建立すべき・・、 そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。 この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の 方々は、自由を獲得することができた。 アメリカは、卑劣にも、ここま
13:26:18 57p:アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の 方々を自由の身にして差し上げられなかった。 黒人の方々は、逃亡して参戦した。 この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。 絶大なる人々である。 リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒
13:27:05 58p:リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無 いのです』。 黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い と捉えていた。 リンカーン政
13:27:57 59p:リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人 の方々を拒絶していた。 参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍 事訓練や軍事組織を作った。 しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』 だった。 黒人の方々は言った・・、
13:29:01 60p:黒人の方々は言った・・、 「私たちは、すでに用意ができています。 白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た ちの政府を守る覚悟ができています。 私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいの
13:29:58 61p:私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。 そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので す。 私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも
13:31:14 62p:この訴えも、リンカーンに届かず、無視されていた。 . 1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日) チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
13:32:14 63p:議会名誉黄金勲章の受賞者である。 1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、 ニューヨーク~パリ間を飛び・・、 大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。 1931年には、北太平洋横断飛行にも成功し
13:33:12 64p:1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。 1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』) を出版し、 これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
13:34:15 65p:ピュリッツァー賞を受賞した。 同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』) また、リンドバークは・・、 「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」 について言及した。
13:35:16 66p:戦死者・捕虜」について言及した。 特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。 リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し た。 そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。 以下、その一
13:36:11 67p:以下、その一部の抜粋・・、 ☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比 して異常に少ない』のは・・、 捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、 アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、 手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し し
13:37:02 68p:手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し した。 その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、 ☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった
13:38:15 69p:殺戮したからだった) 残りの連中には、ちょっとした出来事があった。 それを知った戦友は投降したがらないだろう。 ☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日 本兵を、捕虜にする前に殺したから) ☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。 捕虜1
13:39:03 70p:☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。 捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。 懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。 つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。 ☆一旦、捕虜にして
13:39:51 71p:☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。 即ち、殺された。 ☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、 ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し た。 ☆ある日本軍の野戦病院を、ある
13:40:51 ☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者 は一人もいなかった。 ☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、 捕虜一人だけ得た。 捕虜は、殺
13:42:01 73p:捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。 ☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分 の残飯や廃物を投げ込んだ』 ☆捕虜にしたがらない理由は、
13:42:58 74p:☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、 お土産を取るのが目的。 金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。 耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥 させて持ちかえる。
13:43:47 75p:乾燥 させて持ちかえる。 中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。 ☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい る。 我々は、文明のために戦っているのだと主張している が、 太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明 人を主張せ
13:44:49 76p:(アメリカ人が)文明 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。 事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立 派だ)・・、 リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐 殺
13:45:43 77p:ナチスによる集団虐 殺現場を見学した時の日記で・・、 「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書 いた。 爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から 残飯が投げ捨てられ、 待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、 飾り
13:46:35 78p:まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、 飾り付けられているのを見た時だ。 ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。 リンドバーグは、オーストラリア軍が
13:47:25 79p:リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い てもいる(目撃した)。 本:『War Journal of Charles Lindbergh』 リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア メ
13:48:26 80p:リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア メリカで、大バッシングを受けた。 彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる 直前だった。 彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。 これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・ アメリカと
13:49:33 81p:アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ! . 2008年9月15日、リーマン・ショック これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ った。 2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
13:50:27 82p:破綻した・・ 連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。 このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発 生した。 金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が りして行くことで担
13:51:21 83p:その住宅が値上が りして行くことで担保させようと目論んだ・・ こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、 これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取 って、国全体がやるような状況を作って、それ
13:52:11 84p:国全体がやるような状況を作って、それで、やっ た・・ 案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ の終着点に来た。 しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。 この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には 見えない様にして、状態の悪
13:53:04 85p:表面的には 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権 に混ぜて世界中に売りさばいた。 また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け を「
13:54:00 86p:その会社にその債券の格付け を「良く評価させた」。 良い債券だというお墨付けを付けた。 つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ りを世界中にさせるという行為だった。 この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと や、嘘などが明るみに出
13:55:03 87p:嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ するのは当たり前だった・・ これが、リーマン・ショックだった。 厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。 あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
13:55:57 88p:損失が拡大していく中 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに なった。 あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。 この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」 大もうけした・・
13:56:45 89p:「売り抜けて」 大もうけした・・ それは誰か?・・その様な悪も居た・・、 さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ た奴も大儲けした・・ 当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、 世界中で大暴落した。 経済は冷え込んだ、消費
13:57:35 90p:経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓 延した・・ アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・ アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ を受けた・・ 景気後退が広がって行った・・ この後遺症は、長く世界を悩ました。 中国の人
13:58:26 91p:この後遺症は、長く世界を悩ました。 中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。 中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・ 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、 大回転し
13:59:21 92p:世界の工場としての存在の中国は、 大回転した。 それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような 状況となった。 経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変 わってしまった。 サブプライムローンをあまり保有していない中国は、 影
14:00:13 93p:サブプライムローンをあまり保有していない中国は、 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。 アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済 は大伸長した。 中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策 を行なった。 中国は、舞い上がっ
14:01:21 94p:中国は、舞い上がった。 重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。 中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行 った。 中国は流れに乗った・・ 北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・ この様な状況から発した中国経済・・
14:02:19 95p:この様な状況から発した中国経済・・ 中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな った。 中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は 思い込んだ。 この思い込みが中国の舵を、大きく回
14:03:12 96p:この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変 えた。 中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。 小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思 った。 急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。 金の力で、相手を従わ
14:04:08 97p:金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。 アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、 安易な方針転換をした中国もそこに居た。 .. (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、 このブログを世界へ転送してください)
14:05:42 98p:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、 安易な方針転換をした中国もそこに居た。 .. (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、 このブログを世界へ転送してください) http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009" target="_blank" rel="nofollow">blog.goo.ne.jp/hanakosan2009