01:00:07 あらゆる責 苦(せめく)に遇はされたのです。それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯 を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のやうな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、
03:00:10 さつきの通り杜子春を階(き ざはし)の下に引き据ゑながら、御殿の上の閻魔大王に、「この罪人はどうしても、ものを言ふ気色(けしき)が ございません。」と、口を揃へて言上(ごんじやう)し ました。閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、
05:00:15 やがて何か思ひついたと見えて、「この男の父母(ちちはは)は、畜生道に落ちてゐ る筈だから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。 鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れるやうに、二匹の獣を駆り立てながら、
07:00:04 さつと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣 を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の 通りでしたから。「こら、その方は何のために、 #sougofollow
08:00:05 峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」 杜子春はかう嚇(おど)されても、やはり返答を しずにゐました。「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、 #sougofollow
09:00:06 好いと思つてゐるのだな。」 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」 鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の鞭(むち)を とつて立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、
11:00:04 未練未釈(みれんみしやく)な く打ちのめしました。鞭はりうりうと風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になつた父母は、苦しさうに身を悶(も だ)えて、眼には血の涙を浮べた儘、 #sougofollow
12:00:09 見てもゐられない程嘶(い なな)き立てました。<br>「どうだ。まだその方は白状しないか。」 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、 #sougofollow
14:00:04 息も絶え絶えに階(き ざはし)の前へ、倒れ伏してゐたのです。 杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、緊(かた)く 眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど)声 とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。
16:00:03 「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(お つしや)つても、言ひたくないことは黙つて御出(お い)で。 それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。 #sougofollow
17:00:04 杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつ と眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色(け しき)さへも見せないのです。
18:00:05 大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べる と、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(ま ろ)ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、
20:00:04 「お母さん。」と 一声を叫びました。……<六> その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の 波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
21:00:07 「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひま した。「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つ て嬉しい気がするのです。」 #sougofollow
23:00:13 杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」 #sougofollow